概要
史実・史書を越えて、軍記・お伽草子や、謡曲・浄瑠璃・歌舞伎という諸芸能の世界へと、想像の翼に乗って飛び回る義経。それは都〈京都〉を舞台とする、夢とロマンの世界、牛若・御曹司・義経のファンタジアでもある。
内容(「BOOK」データベースより)
史書・史実を超えてこそ義経は面白い。京都に眠る義経、源氏・平氏ゆかりの地を掘り起こす。
内容(「MARC」データベースより)
史書・史実を超えてこそ、義経は面白い! 京と歴史物語をこよなく愛する人に向けて、鞍馬山、五条天神社、清水寺、六孫王神社、鹿ケ谷、六波羅、千鳥ケ淵、寂光院など京都に眠る義経や源氏・平氏ゆかりの地を掘り起こし紹介。
カバーの折り返し
京と歴史物語をこよなく愛する貴方に!乳飲み子の牛若を懐に、今若・乙若の手を引き雪の伏見街道を大和へ落ちる常盤御前、鞍馬山僧正ヶ谷で天狗相手に武芸修行に励む牛若丸、北野天神・五条天神・清水寺・五条の橋での稚児姿の御曹司(義経)と武蔵坊弁慶との立ち回り、「吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」頼朝の前で稟として謡い舞う白拍子静御前……心の奥にしまわれていた、昔懐かしい『絵本』の扉を開いてみて下さい。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
川口 正貴
1956年愛知県生まれ。古本集めが高じて古美術関係目録制作及び販売に従事して後、音楽雑誌編集、ビデオ制作を経て、学術系出版社に約10年勤務。歴史・文学・語学など幅広く手がけ、約10年前に独立し、編集プロダクション・ターメルラーンを創め、フリーのDTP&エディター&ライターとし現在に至る。各種取材から歴史、心理学、温泉、京都関連の編集等が多い(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
抜粋
●牛若丸誕生~義朝と常盤の愛の館~
数々の伝説とエピソードに彩られた、悲劇の英雄・源義経が誕生したのは、平治元年(1159)である。父は源義朝、母は九条院の雑仕女・常盤であった。 幼名を牛若といった義経が生まれたこの年の12月には、平治の乱が起きている。3年前の保元の乱では勝利し、平清盛とともに政界進出を果たした義朝だが、任官や待遇をめぐった不満が、やがて天皇や摂関家同士の反目や覇権争いと結びついて、平治の乱を引き起こした。土壇場で平清盛に裏切られた義朝は、この戦いに敗れ、東国に逃れようとする途中、翌年正月に尾張知多で旧臣長田忠致(おさだただむね)に謀殺されている。 平治の乱によって、平氏は源氏を完全に押しのけ、「平家にあらずんば人にあらず」とまでいった隆盛を極める基礎を固めた。あとは中央政権での権力を着々と伸ばしていくだけである。一方、源氏の一族には、治承4年(1180)以仁王の平家追討の令旨(りょうじ)を奉じて挙兵するまで、苦節の日々が続くことになる。 洛北鷹峯のふもと、紫野大徳寺の北に、その名も「牛若町」という町がある。かつてこの辺りには義朝の別邸があり、常盤御前は、この地で牛若を出産したと伝えられている。『お伽草子』では、「丁丑(ひのとうし)の歳の丑の日の丑の刻、すなはち丑の方へむかはせたまひて御産ならせたまひし君なれば牛若君と」名付けたと、牛若の名の由来を記している。ここには牛若の『胞衣塚』や産湯につかった井戸が残っている。 『牛若丸誕生井碑』には「応永2年(1395)調之」と記した石があり、室町のかなり早い時期から、ここが牛若丸の生誕地と伝えられていたことがわかる。『お伽草子』にあるような、荒唐無稽な義経伝説が成立するのはまだ先の話だが、義経が伝説の世界の住人になるその双葉は、すでに芽生えていたことを物語っている。 近くに『源義経産湯井遺址碑』があるが、この地は、江戸時代には大徳寺の塔頭大源庵の境内だった。大源庵は、義朝の別邸跡として「常盤第(ときわのてい)」「常盤故御所(ときわふるごしょ)」などと呼ばれていたが、明治11年(1878)に廃寺となり、井戸のみが残った。大正14年(1925)の紫竹の区画整理にあたって井戸の原形が失われたので、その由緒を伝えるために碑が建てられたということだ。 周辺には、常盤御前ゆかりの遺跡が多く残されている。『光念寺』の『腹帯地蔵』は、常盤御前の守り本尊と伝えられ、『常徳寺』には、義経の安産を祈願したという『常盤地蔵尊』が安置される。また、常盤御前が化粧に用いた井戸と伝えられる井戸跡も残っている。この『常磐井』は、『常盤化粧井』とも呼ばれ、かつては京の名水のひとつにも数えられた。井戸の傍らには、清水宗善という人物によって寛文12年(1672)に建立された「常磐井」の碑が建っているが、井戸そのものは残念ながら現在は涸れている。 平治の乱であえなく沈んでしまった義朝は、清和天皇を祖と仰ぐ源氏直系の棟梁だが、傍系には、平治の政局を上手く切り抜けた人物もいる。いわゆる摂津源氏の、源頼政である。源三位頼政として鵺退治のエピソードで有名な彼は、白河法皇にかわいがられ、保元・平治の乱で功を立てた。清盛と行動を共にしてきた頼政だったが、清盛はじめ平氏の専横が甚だしくなるに従って、平氏への反発は抑えがたくなり、ついに以仁王を奉じて平家追討を企てる。当時70歳を超えた老骨にむち打ち挙兵したものの失敗、宇治平等院で自刃した。しかし、彼の挙兵によって反平家勢力の胎動は激しくなり、清盛は突然都を福原に移してしまうことになるのである。 常磐井の東側に鎮座する『若宮神社』は小さな社だが、この頼政の玄祖父にあたる源頼光に関係する場所だ。摂津源氏の祖で、土蜘蛛や鬼退治で有名な源頼光の邸にゆかりがあり、清和天皇を祭神としている。
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